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「鮨真菜」 [鮨]

湯島「鮨真菜」に行ってきました。

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あん肝のスープ。旨い。

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カマトロ。3月に食べたマグロの中では一番。

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カスゴの黄身酢おぼろ。

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三河湾のトリ貝。だいぶ肉厚になってきました。

最近は予約の取れない人気店になっている「鮨真菜」さん。
相変わらず、上質な魚ばかりを使っています。
おまかせの構成もよく考えられていて、
納得の美味しさでした。

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「器に盛る」 [すきなもの]

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もうひとつのブログ「器に盛る」を更新しました。
今回は三月の器として永楽得全の「染付吹墨栄螺向付」を紹介しています。

http://mukouzuke.blog.so-net.ne.jp


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「寿司ペディア」更新 [鮨]

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寿司専門サイト「寿司ペディア」の連載、
「早川光 江戸前寿司の世界」が更新されました。
今月は西麻布「鮨麻葉」の握りを紹介しています。
特にこの宮城県石巻のムラサキウニが印象に残りました。
北海道のブランドウニとも遜色のない味だと思います。

http://sushipedia.tokyo

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「ごほうびおひとり鮨」第3巻 [鮨]

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本日「ごほうびおひとり鮨」の3巻が発売されました。
今回紹介しているお店は

・浅草「鮨 久いち」

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・茅ヶ崎「鮨裕」

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・目黒「鮨りんだ」

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・中野「鮨 峯八」

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・御徒町「鮨處 寛八」

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いずれも自信をもってお薦めできる5軒。
親方の年齢も35歳から84歳までとバラエティに富んでいます。
個人的には「鮨 峯八」の回が好きです。
何しろメディアにはほとんど登場しない
知る人ぞ知る名店ですからね。

すべて客として食べた時のおまかせの内容、
そして支払ったお勘定の金額が記してありますので
実際の食べ歩きにも役立つと思います。
是非、ご一読をお願いします。


ごほうびおひとり鮨 3 (ヤングジャンプコミックス)

ごほうびおひとり鮨 3 (ヤングジャンプコミックス)

  • 作者: 王嶋 環
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2018/03/19
  • メディア: コミック


ごほうびおひとり鮨 3 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2018/03/19
  • メディア: Kindle版



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「鮨由う」 [鮨]

六本木の「鮨由う」に行ってきました。

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店主の尾崎さんのことは前々から知っていて
「独立したら食べに行く」と約束していたのですが、
気がついたらミシュラン星つきの予約が取れない店になっていて
顔を出せないまま今に至ってしまいました。

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ほぐした毛ガニとエゾバフンウニを自分の手で巻いて食べる、手巻き。

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大トロの炙り。

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茹でたてのクルマエビ。

立地も店構えもいかにも六本木の高級店という佇まいでありながら、
尾崎さんの人柄そのままに
気の置けないリラックスした雰囲気の店になっていて、
カップルだけでなく家族連れも来ていたのが印象的でした。
4月からはランチも始める予定ということです。

今まで、プライベートで行った店のことは
ほとんどブログで紹介することはなかったのですが、
これからは、写真撮影OKの店については
少しずつ書いていこうと思います。

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「藤本繁蔵の鮨」その4 [鮨]

僕が雑誌「オプラ」(講談社)2004年6月号に書いた記事
『藤本繁蔵の鮨』の抜粋を数回に分けて、掲載することにしました。
14年前に書かれた記事ですから、
すでに故人となられた方の証言も含まれていることを
予めお断りしておきます。

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「とにかく粋という言葉がぴったりの人」。清水喜久男氏は回想する。
「髪は角刈り、服は着流し。帯をきりりと締めて、柾目の揃った桐の下駄を履いてました」
着物は唐桟縞(紺地に浅葱や赤の細い縦縞を配した柄)を特に好んだ。
足袋は四つ小鉤の紺キャラコで、店は日本橋の『大野屋』と決めていた。
下駄は赤坂の『長谷川』で買った。
「親方の下駄はね、足よりひと回り小さく誂えている。それを履いて颯爽と歩くのが鯔背でした」

そうかと思えばハイカラな一面もあり、カメラはライカ、腕時計はロレックスを愛用し、
トーストとコーヒーが大好きだった。鈴木民部氏は
「トースト用のパンは『明治屋』、サンドイッチなら神田の『蓬莱屋』と使い分けてた。
コーヒーだけじゃなく紅茶にもこだわりがあって、お湯じゃなくて牛乳で入れる。
今で言うロイヤルミルクティーだね。それも沸騰する寸前くらいにポットに注ぐんだ。
そうしないとうまくねえって、明治生まれの人が言うんですから」
と、目を細めて笑う。
(中略)

藤本のこだわりは鮨だけに留まらず、握る舞台である店そのものにも向けられた。
親方を務めた『にし木』や『きよ田』の内装は、なんと藤本が自らデザインしたものという。
いや、自分の店ばかりではない、弟子の『喜久好』や『鮨青木』
孫弟子の館野弘光氏の『山路』まで
藤本が内装の監修をしたというのだから驚くほかはない。

『きよ田』や『鮨青木』など数軒の内装に関わった内田幸男氏はこう語る。
「とにかくセンス抜群さ。店のカウンターひとつとっても、
藤本さんの頭の中には高さ、奥行き、すべてに完璧なイメージがある。
それがシャープなんだ。研ぎ澄まされてるんだよ」
藤本は内装工事の間も足繁く現場に通い、細かな指示をした。
「現場には藤本さん専用のイスがあって、それに座ってじっとこっちの仕事を見てるんだ。
まるで映画監督みたいな具合にね」

内田氏が藤本から学んだことは、氏が手掛けた店の内装にも生かされている。
「藤本さんの内装に対する考え方は引き算。飾り立てるんじゃなくシンプルであることが理想。
それが鮨を美味しく見せるってことが、あの人にはわかってた」(中略)
確かに内田氏の手掛けた店舗には、藤本好みの研ぎ澄まされた美しさがある。
こうして藤本の精神は、次なる世代の鮨職人にも脈々と受け継がれていく。

《終》
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「藤本繁蔵の鮨」その3 [鮨]

僕が雑誌「オプラ」(講談社)2004年6月号に書いた記事
『藤本繁蔵の鮨』の抜粋を数回に分けて、掲載することにしました。
14年前に書かれた記事ですから、
すでに故人となられた方の証言も含まれていることを
予めお断りしておきます。

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ひとつのひとつの鮨に繊細な仕事を施す藤本は、その盛りつけにも徹底してこだわった。
藤本がテーブル客に出す独特の盛り込みは“まわし盛り”と呼ばれた。

我々が目にする盛り込みは、一方を正面として平行に鮨が置かれるのが普通である。
ところが藤本は食べる客が3人なら三方、4人なら四方に放射状に盛り込む。
こうすれば、鮨を自分の方向から食べることができるというわけだ。
「親方は飯台の中を雑然と箸が行き交うのを美しくないと思ったんでしょう」(鈴木民部氏)。
よく見れば、マグロの赤、イカの白、コハダの銀、玉子焼の黄を絶妙な配色で並べていることがわかる。
合理的であってなおかつ美しい。類い稀なセンスを感じさせる仕事だ。

そして、藤本の仕事の集大成と呼ぶべきものが、ちらしずしである。
これは他のどんな鮨職人が作るものとも違う、真に独創的な形状をしていた。
清水喜久男氏は「親方の仕事はどれも最高に美しい。でもその真骨頂はちらしずしです」と断言する。

そこで清水氏に40年前の記憶を再現していただいたのが、この絢爛豪華な“藤本流ちらしずし”である。
これは藤本が深く交流した作家の大佛次郎の注文で手掛けたものだ。

このちらしずし、実に複雑な多層構造をしている。(中略)
シャリの土台に刻んだ干瓢とガリ、もみ海苔をまんべんなく散らし、
周りに玉子焼と煮椎茸、海老おぼろ、煮アナゴを置き、
均一の大きさに切り揃えたマグロの中トロとヅケ、
細かく飾り包丁を入れたヒラメ(またはタイ)、イカ、コハダ、車海老、赤貝を花のように並べ、
彩りとして栗と絹さやをあしらう。
魚の下拵えのみならず、椎茸を煮るのも栗を甘く炊くのもすべて藤本自身がやっていたという。
「親方がこれを作っている時は、声をかけるのも憚られるほど集中してました。
それはもう、怖くて近寄れないくらいにね」
藤本はこのちらしずしを、飯台ではなく大皿に盛りつけ、そのまま大佛の元に届けた。(中略)

他の追随を許さぬ圧倒的な技術、卓抜した美的センス、そして己れの鮨に対する妥協なきこだわり。
そのすべてが、藤本繁蔵が天才と呼ばれる所以なのである。

http://hikari-h.blog.so-net.ne.jp/2018-03-14
( ↑ 続きです)

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「藤本繁蔵の鮨」その2 [鮨]

僕が雑誌「オプラ」(講談社)2004年6月号に書いた記事
『藤本繁蔵の鮨』の抜粋を数回に分けて、掲載することにしました。
14年前に書かれた記事ですから、
すでに故人となられた方の証言も含まれていることを
予めお断りしておきます。

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藤本繁蔵と出会った人々が、まず驚かされるのは、その魚を見抜く目の確かさである。
漁師町に育ち、戦後の一時期は鮮魚の行商をして生計を立てていた日暮静江さんはこう言う。
「魚の目利き?そりゃあ大変なもんでしたよ。赤貝は50匁玉、アナゴは20匁、ヒラメは2キロ、
それより大きくても小さくてもダメ。アワビは大原(千葉県)のもの以外は使わない。
マグロについては『築地にも本当にいいのは年に何回しか入らない』っていつも言ってましたよ。
そのくらい厳しい目をしてた」(中略)

藤本の最古参の弟子、鈴木民部さんの証言はさらに凄い。
「昔の河岸(魚市場)は今みたいにきちんと整理してなくて、魚が雑然と置いてある。
親方(藤本)はそこで山盛りになってる白魚の中から、1尾ずつオスとメスを見分けて、
オスだけを買ってくるんです」
わずか数センチしかない白魚の雌雄を一瞬にして見分けるというのだから、ただごとではない。
「魚については一切妥協しない。本当に魚屋泣かせな人ですよ。
マグロなんてブロックをそのまま買うものなのに、あの人はテンパ(天端=ブロックの上の部分)と
血合いはいらないって、その場で切り落とさせて四角い形にして買うんだからね」(中略)

そして握り。こちらにも驚くべき逸話が残っている。
「普通なら4、5手はかかる手返しを僅か1手で握った」(中略)
俄かには信じられない話。だが、それを鈴木民部氏に問うと「ええ、本当の話です」と
平然とした顔で頷くのである。
「普通の職人には無理。でも親方にはできるんです」

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鮨の形は六面体。その6つの面をきちんと整えるために、
掌の上で鮨を持ちかえながら握る作業のことを手返しと呼ぶ。
一般の鮨職人であればこれを何回も繰り返すところを、藤本繁蔵はただの1回でこなしたという。
「親方の握り方は、他の人とは全然違う。小指を利かせるんです」

手返しの時、ほとんどの職人は人差し指、中指、親指の3本でつまんで持ち、鮨の向きを変える。
ところが鈴木氏によれば、藤本は掌の鮨を小指1本で弾くだけで、向きを変えてしまうというのだ。
「手返しの数が多いと魚に体温が移る。だから少しでも早く握るために、
小指を利かすことを思いついたんでしょう」

その技を継承しているという鈴木氏に、実際にその“小指返し”を実演してもらって仰天した。
まるで手品のように小指1本で鮨がくるりとターンして、前後が入れ替わってしまうのである。
思わず、誹風柳多留の「妖術という身で握るすしの飯」という川柳が頭に浮んだ。

http://hikari-h.blog.so-net.ne.jp/2018-03-12
( ↑ 続きです)

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「藤本繁蔵の鮨」その1 [鮨]

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僕が雑誌「オプラ」(講談社)2004年6月号に書いた記事
『藤本繁蔵の鮨』を読んでみたいという声が寄せられています。
現在「オブラ」のバックナンバーが入手困難ということもありますので、
記事をそのまま転載することはできないのですが、
文章の抜粋を数回に分けて、掲載することにしました。

14年前に書かれた記事ですから、
すでに故人となられた方の証言も含まれていることを
予めお断りしておきます。

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藤本繁蔵は明治35年(1902)6月1日、東京の茅場町に生まれた。生粋の江戸っ子である。
数え11歳にして神田の鮨屋に修業に入り、20歳で一端の職人と呼ばれた藤本は、すぐに頭角を現わし、
その腕を請われて木挽町(現在の東銀座)『二葉鮨』に身を置く。
(中略)
藤本は20代の若さにして、後に銀座『なか田』の主人となる中田一男と共に、
『二葉鮨』のトップ職人として君臨する。

そして戦後。日本橋『すし春』、赤坂『にし木』、六本木『きよ田』と
斯界に名を刻む歴史的名店を、藤本は経営者ではなく“雇われの親方”として渡り歩いていく。

昭和27年に開店した『すし春』は、当時の東京にあって最も高価な鮨屋と言われ、
1日の労働者賃金が240円の“ニコヨン”時代に鮨1貫300円という法外な値段をつけていた。
使う器が魯山人や加藤唐九郎なら、訪れる客も超一流。
小林秀雄、吉田健一、青山二郎、白洲次郎・正子夫妻、今日出海、大仏次郎、武原はんといった
錚々たる顔触れの文化人が連夜のように集い、藤本の鮨に舌鼓を打った。

赤坂『にし木』もまた超のつく高級店。
赤いビロードの絨毯が敷かれたその店内は、まるで迎賓館のようであったという。
(中略)

そして昭和38年創業の六本木『きよ田』。
後に銀座七丁目、銀座六丁目と場所を移し、戦後最高の鮨屋と評されるこの店の
初代の親方が藤本繁蔵であることを知る人は少ない。

藤本が高級店ばかりを渡り歩いたのは、常に最高の魚を握りたかったからに他ならない。
予算の制約なしに魚を仕入れる、それが出来ない限り、藤本の鮨は成り立たなかった。
「魚については絶対に妥協しない。自分が納得しないものは出さない。それはもう徹底してました。
河岸に気に入った魚がないからと、手ぶらで帰ってくることさえありました」(清水喜久男氏)。

そうして仕入れた極上の魚に、最高の仕事を施し、見目麗しき鮨に仕立てるのが藤本の流儀である。
銀座『鮨青木』の女将、青木豊子さんは「先代(故青木義氏)は『藤本さんの握りの形は本当に美しい。
誰もあの人には勝てない』。そう口癖のように言ってました」と回顧する。

興味深いのは、藤本が決して江戸前の作法だけに縛られなかったことだ。
江戸前では醤油と砂糖で煮るアワビを京料理のように蒸して出す。アナゴの香りづけに木の芽を添える。
今では多くの鮨屋が取り入れているこれらの仕事を、藤本は50年も前から実践していた。
古典を踏まえながらも柔軟な発想を持ち、進取の気象に富むのが、藤本のスタイルだった。
 
そして職人の側が握るタネと順番を決める“おまかせ”も藤本が最初と言われている。
「藤本さんは注文聞かないの。『何にしますか』なんて言わない。黙って握る。客の方も黙って食べる。
今思えば、口うるさい文化人がよく文句を言わなかったと思うけど、それだけ藤本さんの腕と味を信頼
していたのよ」(日暮静江さん)。
藤本はその後の江戸前鮨の流れを変えた改革者でもあったのだ。

藤本は70歳を前にして包丁を納めたが、それから天寿を全うする直前まで
弟子たちの店を訪ね歩き、指導を続けた。
その84年の人生は、まさに鮨ひと筋に捧げられたものだった。

http://hikari-h.blog.so-net.ne.jp/2018-03-10
( ↑ 続きです)

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「寿司ペディア」更新 [鮨]

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寿司専門サイト「寿司ペディア」の連載、
「早川光 江戸前寿司の世界」が更新されました。
今月は西麻布「鮨麻葉」の握りを紹介しています。

http://sushipedia.tokyo

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